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<<「習近平政権の権力構造」を読んで感じたこと>>

2023-08-10
「習近平政権の権力構造」を読んで感じたこと
「習近平政権の権力構造」は日本経済新聞の中国総局長である桃井 裕理氏が、「3期目がスタートした中国の習近平政権が、米中の対立が深まる中、その毛沢東、韓非子流の統治スタイルはどこに向かうのか」について書いた本ですが、この本を読んで感じたことを書いてみました。

「習近平政権の権力構造」について

【日本の法治と中国の法治の違い】
日本の政治は、日本国憲法に定められた体制に基づき行なわれています。そのため、官庁は日本国憲法と国会の定める法律、法令などに基づき仕事をします。つまり日本は法律をルールにして動いている国、いわゆる法治国家です。法治国家は、一般的に、国民の意志によって制定された法律を守って国政が行なわれることを基本とする社会です。また、この社会を成り立たせるために、国民の基本的人権の保障を原則としています。


一方、中国での「法治」は「法律という道具を「支配者」(昔は皇帝、今は習近平)がしっかり使い、社会正義を実現する」という意味合いが強いと言えます。こうした中国社会の「法治観」には「社会には必ず国民の上に立つ「支配者」が存在している」という前提があります。

日本では、社会を管理しているのは国民、つまり私たち自身です。うまく管理できているか否か、その実態はともかく、理屈の上では私たちは自ら代表を選び、その人たちに国の方向づけと管理を行ってもらっています。代表が十分な仕事をしていないと考えれば、人選を変えることができます。つまりこの社会を管理し、社会正義を実行するのは私たち自身の責任であり、社会がうまくいかなければ自分たちで何とかするしかないという大原則があります。(あくまで原則であり、残念ながら実態は別ですが・・・)

中国の社会はそうではありません。古代から今に至るまで、中国には常に「支配者」が存在し、実力で世の中を制圧し、国民の意志とは無関係に「自分たちの都合」で統治を行ってきました。法律とは「支配者」が「自分たちの都合」を実現するために作るものです。これは「良い・悪い」の問題ではなく、天地開闢以来の現実としてそうであり、現在の習近平体制も例外ではありません。


【習近平の法治とは】
韓非(かんぴ)は、中国戦国時代の思想家で、「韓非子(かんぴし)」の著者です。法による厳格な政治を行い、「支配者」の権力を強化し、富国強兵をはかろうとする政治思想である法家の代表的人物であり、韓非子とも呼ばれています。(韓は、中国戦国時代に存在した戦国七雄の一国ですが、七雄の中で最も弱小な国でした)即ち、中国に於ける法治の基本的な考え方を形成した法家の、代表的な人物の一人が韓非ですが、習近平が考える法治はこの韓非の法治なのです。

韓非子の中に、「侵官之害(官職の範囲を犯すことの弊害)」という一文があります。

韓の「支配者」(君主)である昭侯が酔って寝てしまったことがありました。
冠を管理する役人が、昭侯が寒そうなのを見て、昭侯に衣をかけました。
昭侯は眠りから覚めて、衣がかけられていることを喜び、左右の者に「誰が衣をかけてくれたのか」と尋ねました。
左右の者は、「冠を管理する役人です」と答えました。
これを聞くと、昭侯は、衣服を管理する役人と、冠を管理する役人を二人とも罰しましたが、「冠を管理する役人」はより罪が重いということで、死刑となりました。
衣服を管理する役人を罰したのは、昭侯が寒そうにしていたにもかかわらず、衣をかけないだけでなく、衣服を管理するというその職務を怠ったと考えたからです。
冠を管理する役人を罰したのは、昭侯の冠を管理するというその職権を越えたと考えたからです。
昭侯は、寒いことが気にならないわけではありませんでした。しかし官職の範囲を侵すことの弊害は、寒さによる弊害よりもひどいことだと考えたからです。

賢明な「支配者」(君主)が家臣を待遇するとき、家臣は官職の範囲を越えて功績を挙げることはできず、自分の官職の範囲内で意見を述べて、その通りに実行しなけでればなりません。官職の範囲を越えれば死刑となりますし、意見を述べても、その通りにしなければ罰せられます。こうして、家臣たちが徒党を組んで「支配者」(君主)に逆らうようなことが出来ない仕組みを作ったのです。

韓の「支配者」(君主)である昭侯と同様に、習近平が求めているのは、自分の職務を確りと認識をして、職務以外のことは一切行わず、職務に忠実に励む部下、そして国民なのです。


【二柄(にへい)とは】
韓非は、「支配者」が次のふたつを手放したときに没落すると説いています。ひとつは賞を与える権限と能力、もうひとつは罰を与える権限と能力です。このふたつを二柄(にへい)と呼びます。賞を与える権限は喜びを与える権限ですから、気持ちよく行使することが出来ますが、罰を与える権限を行使すると恨まれることになります。だから「支配者」は賞を与えるときは自分自身で行い、罰を与えるときは別の者に任せようとしますが、このようなことをすると、罰を恐れる者たちは罰を与える権限と能力を持つ者に従うようになり、「支配者」の権力は弱体化します。だから「支配者」は罰を与える権能を部下に委譲してはならないのです。

共産党の幹部は殆ど例外なく不正蓄財している可能性が高く、全員が「叩けばホコリが出る身」なのです。従って中国で腐敗を摘発する権限と能力があるということは、習近平が「支配者」として存在し続けるために、絶対に必要なことなのです。胡錦涛(こきんとう・習近平の前任の総書記)は退任時に全ての権限を習近平に譲りましたが、江沢民(こうたくみん・胡錦涛の前任の総書記)は人事に介入して子飼いの部下を出世させる権力、つまり賞を与える権限はなかなか手放しませんでしたが、罰を与える権限と能力を習近平に移譲してしまいました。その結果「俺たちが習近平を国家主席にしてやった」と考えていた長老たちと、習近平の力関係が逆転してしまったのです。


【皇帝習近平誕生】
就任時から「二瓶」を強く意識し、10年を掛けて自分が望んだ体制を構築し3期目を迎えた習近平に、正面から逆らうものは見当たりません。チャイナセブンである政治局常務委員ですら、習近平総書記の指示を受けて動くだけですし、政治局員(常務委員含めて全員で24名)は一部官僚を除いて全て習派です。更に国務院から政策を立案する権限を奪い、国務院は単なる執行機関となってしまいましたし、人民解放軍もトップは習近平で幹部は習派で固められています。(因みに人民解放軍は党の軍隊であり、国の軍隊ではありません)またこの時期、避暑地である北戴河で開かれていた長老との会議も、習近平に対してモノ言う長老はいなくなってしまいました。まさに、皇帝習近平の誕生と言えますが、果たして上り詰めた習近平は安泰なのでしょうか。

私には、自分の部下、国民に「職務を確りと認識をして、職務以外のことは一切行わず、職務に忠実に励む」ことを求め、国進民退(こくしんみんたい・国有経済の増強と民有経済の縮小)政策※を進める習近平が、皇帝の地位を保つことが出来る様には思えないのですが・・・。皆さんはどのように考えますか?

※中国当局は中国電子商取引大手のアリババ・グループに対して独占禁止法違反で巨額の罰金を科すとともに、その傘下で金融プラットフォーマーのアント・グループに対して、当局の監視下に置く再編を進めています。